Snyker Spotlight:Jeff Yoshimuraが語るアジア系アメリカ人としてのルーツとAAPI Month
Jeff Yoshimura
2021年5月19日
0 分で読めます友人からよく、「どうして自分で芝を刈ったり、庭の手入れをしたりするの?」と聞かれます。
たいていはその質問を軽く受け流し、「いつか子どもたちが引き継ぐことになるから、責任感を教えるためだよ」と答えます。でも、この話にはもう一つの真実があります。ここで初めて公にお話しします。それは、家族の歴史に根ざしたものであり、Asian American Pacific Islander Heritage Monthに寄せる私の思いに深く関わっています。
アメリカに暮らす人のほとんどと同じように、私たちにも、より良い暮らしや機会を求めてヨーロッパ、アフリカ、中東、南米、アジアなど、どこか別の土地からやって来た先祖がいます。100年以上前、私の祖父もその一人でした。1910年代、7人きょうだいの末っ子だった彼は、10代で兄を頼って日本からアメリカに渡りました。英語はまったく話せませんでした。より良い暮らしと平和を求めて、両親は彼を一人でアメリカに送り出したのです。当時の日本は不安定で、封建的な社会でした。また、アメリカでは農業や漁業の労働力がますます必要とされていたため、1800年代後半から1924年にかけて、日本人移民の第一波がハワイ、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンに定住し始めました。しかし、日本人の農業での成功に対する反感から反日運動が起こり、アメリカへの日本人移民は1924年移民法によって終わりを迎えました。
10代だったにもかかわらず、彼は小学2、3年生の学年に編入し、すぐに英語を身につけました。数年で高校を卒業し、農業に従事するようになりました。その後15年間で十分な資金を貯め、小さなホテルを借りることができました。まさに「アメリカン・ドリーム」を実現したのです。しかし、第二次世界大戦によって、すべてが終わりました。大統領令9066号により、祖父を含む日系人のアメリカ市民数万人が、必要とあれば強制的に収容所へ移送されることになりました。収容所の多くは、荒涼とした砂漠地帯にありました。彼らは、スーツケース一つを除くすべてを残していくことを強いられ、家や事業も手放さなければなりませんでした。祖父が懸命に働いて経営し、借りていたホテルも、補償を受けることなく土地の所有者に返さなければなりませんでした。

収容所での暮らしは過酷でしたが、そこでは多くの強い絆が生まれました。祖父は収容所で祖母と出会い、戦争が終わる直前の1945年に父が生まれました。収容所での生活や、生き抜くための経験について知りたい方には、『Farewell to Manzanar』がおすすめです。
戦後、日本人や日系アメリカ人の多くは、ロサンゼルス、サンフランシスコ、サンノゼ、サクラメント、シアトルなど、アメリカ西部の都市や近隣の農村地域に移り住みました。文化的な価値観や伝統は受け継がれた一方で、日本語は失われるか、使われる機会が減っていきました。アメリカ社会によりよく溶け込めるようにと、親や祖父母が子どもたちに英語だけを学ぶよう教えたためです。ある意味、これが日本人が「模範的マイノリティ」という呼び名を得た背景です。若い頃の私はそれを良いことだと受け止めていましたが、今では、これは制度的な人種差別の一形態であり、今もそうであると理解しています。

さて、芝刈りとガーデニングの話に戻りましょう。
戦後、祖父が選んだ仕事はガーデナーでした。彼はその仕事に誇りを持ち、腕を磨き続けました。お客さまへの接し方を学び、芝生や庭を美しく整える技術を身につけました。それはまるで芸術のようでした。その技術と顧客サービスが新たなお客さまや仕事につながっていったのです(最高のマーケティング=顧客の成功+口コミ)。大変な仕事にも不平を言わず、いつか父を大学に進学させるため、できる限りお金を貯めていました。

とはいえ、特に父にとって、いつも楽な道のりだったわけではありません。土曜日、ほかの子どもたちが自由な時間を楽しむ中、父はしぶしぶ家業を手伝い、学校の同級生の家で働いていました。一方で、父はその仕事の腕を磨き、後には家事を通じて、私と二人の兄にも技術を伝えてくれました。
祖父の夢は、1969年に父がカリフォルニア大学バークレー校を土木工学の学位を取得して卒業したことで、ついに実現しました。その後1995年には、私がカリフォルニア大学デービス校を卒業する姿を見届け、数年後には二人の兄がカリフォルニア大学ロサンゼルス校を卒業する姿も見ることができました。99歳を目前に亡くなるまでに、祖父は自分の努力が実を結ぶのを見届けることができたのです。

だから、外で芝を刈ったり庭を整えたりするたびに、いつも祖父の存在を身近に感じます。多くの人が語るべき物語を持っているからこそ、これが私のAsian Pacific American Heritage Monthへの思いです。
一人の人間、そしてリーダーとして歩んできたキャリアを振り返ると、私にとって大切なのは、今の自分に至るまでに支えてくれた人たちに思いを馳せることです(私の場合、あらゆる年齢、性別、民族の人々、そしてアメリカ国外出身の人々が支えてくれました)。どれほど成功しても、謙虚さと思いやりを忘れないこと。懸命に働き、何事も当たり前だと思わないこと。自分よりもまず相手のことを考えること。人の役に立ち、メンターとなり、問題解決を助け、人を成長させ、できるときに恩返しをすることです。
私の話を聞いてくださり、ありがとうございます。アジア系の人々へのヘイトクライムが前例のないほど増加している今、アジア系の人々やアジア系アメリカ人の歴史と苦難を理解し、認知を高め、暴力を止めるためにできることをしていただきたいと思います。可能であれば、アジア系アメリカ人コミュニティの支援に取り組む多くの非営利団体の一つに、Snykとともに寄付することをおすすめします。たとえば、次のような団体があります。
Asian American Federation - アジア系アメリカ人の正義と機会の拡大につながる政策、サービス、資金提供を提唱しています。
AAPI Women Lead - 調査、教育、安全トレーニングなどを通じて、AAPIコミュニティに対するあらゆる形の暴力をなくす活動に取り組んでいます。
WomanKind - 暴力の影響を受けたAAPI女性に、多言語で文化的背景に配慮したサービスを提供しています。
Hate is a Virus - アジア系コミュニティにサービスを提供し、外国人嫌悪や人種差別に立ち向かう団体に助成金を提供しています。
Jeff “Yosh” Yoshimuraは、Snykの最高マーケティング・カスタマーエクスペリエンス責任者です